26 差別の根底にあるものは?

ハンセン病の歴史について知ろう

ハンセン病とは

ハンセン病は、「らいきん」にかんせんすることで、末しょう神経がまひし、の感覚がなくなったり、あせが出なくなったりする病気です。らいきんは毒性が弱く、現在の日本では、発病することはほとんどなくなりましたが、りょう法のない時代には、体の一部が変形するといった後遺しょうが残ることがありました。かつては「らい病」とよばれていましたが、1873年(明治6年)にノルウェーのハンセン医師が らいきんを発見したことから、現在はハンセン病とよばれています。日本では、古来から、原因不明の病気としておそれられていました。

ハンセン病かんじゃかく

1907年(明治40年)、国は、「らい予防ニ関スル件」を制定し、それまで、家族にめいわくをかけないようにほうろうしていたかんじゃりょうよう所に収容しました。この時点では、りょうよう所の入所者数は、ハンセン病かんじゃ全体の5%程度でした。しかし、1931年(昭和6年)に「らい予防法」を制定すると、全てのハンセン病かんじゃの強制かくを始めました。かんじゃたちはしょうじょうの重さにかかわらず、全国のりょうよう所に収容されました。

消毒風呂
なかさんが今も暮らすながしまあいせいえんは、1930年(昭和5年)に国立らいりょうよう所としてほっそくしました。写真は当時の長島愛生園の消毒風呂ぶろです。かんじゃりょうよう所にとうちゃくすると、最初に消毒に入れられました。

続くかく政策

1947年(昭和22年)、りょう薬「プロミン」の使用が日本でも開始されました。しかし、1953年(昭和28年)に「らい予防法」を作り変える形で制定された「らい予防法」では、引き続きかんじゃの外出や労働が禁止されていました。

回春寮のベッド
長島愛生園のかいしゅんりょうのベッド。当時、かんじゃは、入所の手続きが終わるまでの一週間ほどを回春りょうで過ごしました。

国の謝罪と人権回復

1996年(平成8年)、ようやく「らい予防法」がはいされました。ハンセン病は毒性が弱く、治る病気であるにもかかわらず、法の見直しがおくれたとして、当時のこうせい大臣が謝罪をしました。しかし一度根づいたへんけんは簡単にはなくなりませんでした。病気から回復しても、人々のへんけんに苦しんでいた回復者たちは、「らい予防法は基本的人権をしんがいしたもので、憲法にはんしている」として、裁判を起こしました。その結果、国の責任を認める判決が下り、国は回復者たちが受けた損害をつぐなうことになりました。2002年(平成14年)にはこうせい労働大臣の謝罪広告と、ハンセン病が治る病気であることを知らせる政府広報が、全国で50の主要な新聞にけいさいされました。

現在のりょうよう

現在も全国に13か所の国立のりょうよう所が残っています。(国立のりょうよう所のほか、私立のりょうよう所も1か所が残っている。)国立のりょうよう所では、2022年(令和4年)5月時点で927人が生活していて、平均ねんれいは87.6さいです。ほとんどの入所者はしていますが、後遺しょうこうれい化、いまだに残る社会のへんけんへの不安などの理由で、退所することができない人もいます。

長島愛生園歴史館
現在の長島愛生園歴史館。

〈写真3点:長島愛生園歴史館〉