34 撮れなかった一枚の写真

ベトナム戦争について知ろう

ベトナム戦争のけい

第二次世界大戦後の1946年、インドシナ半島を植民地支配していたフランスと、フランスからの独立を目ざすベトナム民主共和国との間で、戦争が起こった。1954年、休戦協定が成立し、フランス軍がてっ退たいすると、ベトナムは、ほく17度線を境に南北に分断された。北では、中国、ソ連のえんを受けるベトナム民主共和国(北ベトナム)の統治が続き、南では、1955年に、アメリカのえんを受けたベトナム共和国(南ベトナム)が成立した。

1960年、ベトナム共和国(南ベトナム)内で、独裁政権とうを目ざす南ベトナム解放民族戦線が結成されると、ベトナム民主共和国(北ベトナム)はこれをえんし、内戦状態におちいった。

ベトナム戦争当時の地図。

アメリカは、ベトナム共和国(南ベトナム)をえんするため、1965年に、ベトナム民主共和国(北ベトナム)に大規模なくうばくを行い、地上部隊を展開した。

アメリカ側は、あっとう的な軍事力を示したが、南ベトナム解放民族戦線側も、ねばり強くていこうし、せんとうどろぬま化した。民間人をふくぼうだいせい者が出る中、世界各地で反戦の声が高まった。

1973年、パリ和平協定が結ばれると、アメリカ軍はベトナムからてっ退たい。後ろだてを失ったベトナム共和国(南ベトナム)は、1975年に降伏こうふくし、翌年、ベトナム社会主義共和国として、南北ベトナムの統一が果たされた。

ベトナム戦争とジャーナリスト

ベトナム戦争が激しさを増す中で、たくさんのフォト・ジャーナリストがベトナムをおとずれ、そのさんじょうきょうを報じた。かれらの働きによって、戦争の現実が人々に伝えられ、反戦世論が高まった。

日本からも、ベトナムに向かう人たちがいた。中でも、さわきょういちさんは、かんに激戦地に入り、取材を重ねた。沢田さんの代表的な写真は、1965年にられた「安全へのとう」と題される写真で、1966年に、ピューリッツァー賞を受賞した。

沢田教一
「安全へのとう」(さわきょういち・1965年)
せんとうのがれるため、必死に川をわたる親子。

〈写真:Bettman/ゲッティイメージズ〉